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行動で愛を証明しよう

藤沢数希「恋愛工学」問題特設ブログ。性暴力・デートDV反対!主に書物の中の性差別表現について考えています。

森岡生命学にはガバナンスの概念が欠如している

ジェンダー批評 感じない男問題 森岡正博 筑摩書房

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森岡さんの「誕生肯定」を批判したエントリーの中で「ガバナンス(統治)が欠如している」と指摘しましたが、

tsunamiwaste2016.hatenablog.com

 『感じない男』でも、「あれれ、大学教員なのにこんなこともわからないんだ」と思った行がありました。

 

学校・高校での教育の大きな特徴は、教えるべき内容が、文部科学省によって事細かに決められているということだ。教科書はすべて検定を受け、教師が自由に裁量できる範囲も極めて少ない。これが、大学教育とまったく異なる点である。大学教育は、教育内容について大きな自由が認められており、とくに文科系では、教師が違えば授業内容もまったく別物になるという現象もみられる。授業の下手な教師は、学生から見捨てられることも起こり得る。

これに比べて、中学校や高校では、決まりきった内容を、生徒に一方的に教え込む授業がメインとなる。つまり、中学校や高校の教育は、生徒の頭の中に知識や価値観を流し込むこと、すなわち「洗脳」にかぎりなく近くなるということである。(中略)

もちろん中学校や高校にはディスカッションの時間や、自由研究の時間などもあり、教師と自由に対話する機会も与えられているわけだから、そのすべてを「洗脳」だと決めつけるわけにはいかない。しかしながら、中学校や高校では、文部科学省が検定した教科内容が、誤りなく生徒の頭の中に注入されていることが基本目標とされているわけだから、この構造は限りなく「洗脳」に近いと言わざるを得ないだろう。「国を愛する心」や「男らしさ女らしさを尊ぶ心」を学校で教えるべきだという声が盛りあがっている理由も、ここにある。なぜならそれを根付かせるためにもっとも効果的なのは、学校でその価値観を教え込み、洗脳することだからである。(P.9597

「学校教育・公教育」と「洗脳・マインドコントロール」の区別がついていない。

なぜ教科書検定制度があるのか、教員は免許制なのか、教育委員会が存在するのか、PTAという形で保護者が関与できる仕組みになっているのか、これが分かっていない。

まさに森友学園問題で「国を愛する心」を子どもに教え込もうとしたわけですが、都道府県の認可というガバナンスがありました。また横浜市のいじめで150万円取られた男の子の件でも、ネットで「教育委員会のトップを解任したほうがいい」という声が上がりましたけども、公教育というのは、一部の独善的な人たちが暴走した時に備えて、他の関係者が介入できる仕組みになっています。

そのガバナンス(統治)機構の重要さがわかっていない(なぜ教科書を作っている筑摩の編集者はここに赤鉛筆を入れなかったのでしょうか?)。

誕生肯定も、非常にリスキーな内容にも関わらず、ガバナンスを大切にして、リスクヘッジしようという雰囲気があまり伺えない。そこに一章を割いてもいいぐらいだと思うんですが。

そもそも本当に、自分の関係嗜癖の克服に当事者努力を尽くしているならば、なりふり構わず、セルフヘルプグループに必死で通い、勤務先を女子大生と接点のある大学勤務から、学生と接点のない日文研のような研究所に変え、宗教に入信するはずです。でもそうではない。むしろ逆です。大学で恋愛やジェンダーについて考えるなんていうことをやれば、若い子が集まります。むしろ若い子との接点を増やしている。その状態で誕生肯定をやっている。

これは「税金を使って、研究を口実にして、自分のセックス教団を作りたいんじゃないの? 関係嗜癖セックス依存症)を大学でやりたいんじゃないの?」と疑問を持つべきです。それが健全な懐疑精神です。同業者はちゃんと調べたほうがいいです。被害者の女の子は若い子で、彼女はDVで黙らされていると思います。DV加害者は嘘をつきますし、治りません。

森岡さんは『無痛文明論』(トランスビュー)で、

私は、なぜその既得権を手放さないのかについて自己正当化をはじめるであろう。様々なもっともらしい理屈を付けて、その正しさを訴えようとするだろう。しかしそれでも相手が納得しなければ、次に私は、いろいろな言い逃れをし始める。自分でも苦しいとわかっているような屁理屈を作り出してしまう。それでも相手が納得しないときには、暴力や脅しによって相手を黙らせようとするだろう。そして、それでも相手が屈しなければ、最後の手段として、その相手となにかの取引を始めたり、あるいはその相手と何かの共犯関係を取り結ぼうとするだろう。(P.162)

ここまで書いています。実態を調べたほうがいいです。

また『感じない男』では、「少女」を「マインドコントロールしたい」と書いてしまっている(実際、私は彼のモラルハラスメントが嫌で別れたわけですが……)。ということは今、大学で教えているのも「マインドコントロール」ではないか。悪友の宮台真司首都大学東京教授)も「ぼくの授業はマインドコントロール」と公言しているようです。

「人様の大切なお子さんを預かって、社会を支える人材として育てている」という考え方があれば、マインドコントロールなんていう言葉ではなく、もっと別の、利他的な言葉が出てくるはずです。女子大生のスカートを窃視して「いいな」と思うことは、我欲のために他者を搾取していることであり、盗みなんです。

彼ひとりがぐずぐずと無神論にこだわっているせいで、実は私たちはものすごい社会的コストを支払わされているのではないでしょうか?

また公私の区別がめちゃくちゃです。森岡さんは学者ですが、ほとんど私小説家です。生命学は「自分を棚上げしない」というのがコンセプトで、個人を起点に哲学をされている。そうすると公私の区別をつけることができませんから、私小説家と同じです。 

私は私小説を否定しませんが、当然まわりから嫌われます。車谷長吉さんはご親族から訴訟も起こされましたし、晩年はほとんど友達がいなかったそうです。そして何より、在野で一作家としてやります。

森岡さんは、日文研時代は国家公務員、大阪府立大学時代は地方公務員です。税金を遣って私小説を書いているんです。言論人は必ず言論責任が問われますが、特に税金を使う立場の人は、説明責任(アカウンタビリティ)が強く求められます。

tsunamiwaste2016.hatenablog.com

『感じない男』や『草食系男子の恋愛学』は大阪府立大学時代に書かれたものです。自分の関係嗜癖を治すために公立大学教授の立場を利用して、公金を遣い、学生を巻き込んだんじゃないのか。そんな気さえしてくるのです。普通の人は、自腹を切って、土日にカウンセリングに通って治します。

いずれにせよ、大阪府立大学時代にすでに研究はやってしまったんですから、人から「私生活で恋愛はうまくいっていますか?」と質問をされたら、説明責任があるんです。都合の悪いときだけ「プライバシーなので答えられません」と逃げることはできません。

嫌なら、最初から公私の区別をつけられる研究テーマを選べばよかったんです。私はてっきり加藤尚武さん(京都大学名誉教授、公立鳥取環境大学名誉学長)みたいな正統派の倫理学者か、理系マインド(森岡さんは理系で東大に入って、文転した経緯があります)を活かして、村上陽一郎さん(東京大学国際基督教大学名誉教授)のように、科学倫理で活躍するんじゃないかなと期待していたんです。

二〇年ぶりに「いまどんな仕事してるのかな?」とチェックしてみたら、外向けにはずいぶん美辞麗句を連ねているのに、弱い。がっかりしてしまいました。

なぜジェンダーしかなかったのでしょうか? 範とする師はいなかったのでしょうか? 忠告してくれる友達はいなかったのでしょうか? 聡明な友人たちに恵まれていたはずです。運命の濁流にあらがえなかった単なる犠牲者ではなかったはずです。

一番聞きたいのは、なぜ悪友・宮台を切らなかったのか、ということです。私が彼と交際していた九五年には「俺は宮台真司ではないぞ」と言っていました。

私は、今回、加藤尚武さんの『応用倫理学のすすめ』を久々に読み返したんですが、加藤さんは「子どもは保護の対象」と明快に言い切っているんです。私は「愛するとは強さなんだ」と感じたんです。自分を律する強さであり、不正と戦う力なんです。