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行動で愛を証明しよう

藤沢数希「恋愛工学」問題特設ブログ。性暴力・デートDV反対!主に書物の中の性差別表現について考えています。

『感じない男』ではどんな話のすり替えが行われているのか

ジェンダー批評 筑摩書房 表現規制 森岡正博 感じない男問題

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実は社会評論にカモフラージュした自慢話でした

この本の「第三章 私はなぜ制服に惹かれるのか」と「第四章 ロリコン男の心理に分け入る」で、著者は、

「私にはロリコンの気持ちが分かる。(中略)少女と性的にかかわったことはないし、かかわろうとしたこともない。」(P.110

 と前置きをし、「実在の少女に手を出したことはない」という前提で「少女とセックスをしてみたい」と、十二歳程度の少女を想定したSM的なセックスを「妄想」として語っています。

しかし、そうではなく事実は、

本書出版(二〇〇五年)の十年前の一九九五年に、森岡さん(当時三十六歳)は、私ツナミ(当時十七歳)と交際して、デートDVを実際にしました。

第三章・第四章で「妄想」として書かれていることは、彼が私にやったことです(全部ではありませんが)。時系列に直すと、彼と私のデートDV的な交際が先にあり、その経験を踏まえて、第三章・四章の「妄想」の部分は書かれています。ポジショントークやミスリードというレベルではなく、嘘です。真っ赤な嘘です。

いままで本書をまじめに受け取ってきた読者の皆さん、ご苦労様でした。あなた方は著者に騙されました。森岡さんは、悩める善良な教育者なんかではありません。

一九九五年当時、森岡さんは奥様とご子息がおられたにも関わらず、家庭を放棄し、女性フェミニズム研究者(山下悦子さんというお名前が出ていますが)と、関東在住の私、この二人の女性と、同時並行で不倫をしていたようです。この事実を押さえた上で、下記センテンスについて検討しましょう。

たとえば児童買春で逮捕される教師や、教育委員会の人間などは、社会において立派な地位もあり、家庭もあるような男たちだ。彼らは成熟した大人の女たちとも性的につきあいながら、同時に少女たちをも買っていたのであり、大人の女と人間関係を持てないような未熟な男が少女に手を出したわけではないのである。(116頁。傍線引用者)

このセンテンスはどのように読み替えるべきかというと、

俺は、妻や山下悦子と性的につきあいながら、少女ツナミともつきあっていたのであり、大人の女と人間関係を持てないような未熟な男ではないのだ。

おそらくこれが著者の本当に言いたいことです。つまり、社会評論にカモフラージュした、ただの自慢話。

 以前に藤沢数希の中の人らしき男性が「(自分にとって藤沢数希というキャラクターは)自分の俗物根性のかたまり。一般論に見せかけて、自分の鬱憤を文章に込めて、『こいつ、ほんとうに浅はかなやつだな』と心から軽蔑をしてスッキリする」と、複雑な創作心理を語っていたことがあるのですが、いまとなっては森岡さんも似たような書き手です。一般論にこじつけて、私的な鬱憤を晴らしているんです。

どうです、器の小さい男でしょう?

そんな文章を、お金を払ってまで読みたいですか? 彼の性癖の熱烈なマニアの方は読めばいいと思いますけど、私は「スナックにでも行って、飲み代払ってホステスに聞いてもらえ」「臨床心理士にカウンセリング代を支払って聞いてもらえ」と思うんです。

森岡さんの本の特徴は「本来であれば、森岡さんが人様にお金を払って聞いて頂く話」を「なぜか本にして、人様からお金を取ろうとする」というところです。

よく彼の本については、「ナルシシズムが鼻に突く」(青木るえかさん)とか「独特の押しつけがましい文体」(私の知人)とか「酒席で話せよ」(増田)と言われます。私も同感です。いらっとする。 

森岡流詭弁術として一例を挙げましたが、本書には、類似の詭弁・話のすり替えが満載です。私は、人が嘘をつくとか、詭弁を展開するというのは、それはそれで別の味わいがあると思っていて、否定はしないんです。嘘をつくということは本質的に滑稽なことです。ヒューマン・インタレストの観点から肯定的に見ています。落語なんか粗忽者だらけです。

 五年前、藤沢数希らしき人と関わったときも、私は「結婚詐欺師みたいだな」と思ったのです。でも「結婚詐欺師なんてやるような男は、相当変わり者だから、おもしろいから騙されてみるか。詐欺師だとしても『クヒオ大佐』みたいに、それはそれで人物ルポルタージュになるだろう」と思って、彼のアプローチに乗ったのです。

いまとなっては、正統派のはずの森岡さんも同じようなインテリペテン師だったということになります。こう考えてみると、人生というのは分からないものだなと思います。

しかしまず怠け者に釘を刺さなければならない。怠け者とは編集者です。なぜ編集者は見抜けなかったのか。

おかしいと思ったら直感を大事にしよう

青木るえかさんが、当時、週刊朝日で、「なんか気持ち悪いな、気持ち悪いな、と思いつつ、それでもがんばって読了し、ぱたりと本を閉じたら、裏表紙に著者近影が。う。その写真には“ボクは東大卒の学者だけど、セクシュアリティやオナニーについても語っちゃうんだもんね”という念の入ったナルシシズムが感じられ、これをもってこの本は締めくくられるのであった(大意)」という書評を書いておられたそうです(これはあるブログからの孫引きで、原文までは確認していません)。

 「おかしいな」と直感でビビビとくるときは、大事なんです。絶対無視しちゃいけない。

私は宅建を持っているんですけど、職業上の注意義務(善管注意義務)というものを学んだんです。

例えば、豊洲の卸売市場移転予定地みたいに、土地を購入したが実は土壌汚染されていて、汚染対策をしなくては建築物を建てることができないことが判明した。こういうことは本来あってはいけないことで、土地を買う前に、宅建業者は、もともとその土地に何があったのかを確認しないといけないんです。法務局へ足を運んで不動産登記簿謄本を取得したり、売主はもちろんのこと、近隣住民に「もともとここ土地には何があったんですか?」と聞き込みまでします。

豊洲の場合は、前の所有者は東京ガスで、あの土地は工場跡地だったことで有名です。ということは買主の東京都としては、当然土壌汚染を疑って、検査をしなくてはいけなかった。

土壌汚染リスク以外には、事故物件(自殺・殺人事件があった場所)とか、がけ崩れとかいろいろあります。その条件で値段が変わってきます。当然、瑕疵のある物件は値切れますから、安い価格で成約します。

不動産の場合は大きなお金が動くので、この注意義務というものが法律で課されていますし、実際に裁判にもなります。現場で働いていても、先輩からしっかり勘所を指導されます。「あやしいな」と直感でピンときたら、調べなくてはいけない。

青木さんは「気持ち悪い」とおっしゃっている。おそらく直感で、何かを見抜いたんだと思います。「嘘っぽいな」と思ったんじゃないのでしょうか。 

私は当事者なので、読んで認知的不協和を起こしました。これは何かというと、語り手が「自分は誠実だ」と言いながら、嘘の内容を話すと、聞き手がダブルバインドになり、ヒステリー反応を起こすというものです。森岡さんは「自分は誠実です」と断った上で、「少女と性的に関わったことがない」と断りつつ、私に対して行ったデートDVの内容を書いている。読み手の私はヒステリー反応を起こしました。

藤沢数希の恋愛工学では、この認知的不協和を悪用した、言語レベルのDVのやり方が考察されています。

blog.livedoor.jp

例を挙げて説明しますと、島尾敏雄が妻に同じことをしています。『男流文学論』(上野千鶴子富岡多恵子小倉千加子ちくま文庫)のP.87の「曖昧さを誠実さとかんちがいした島尾敏雄がミホを狂気に縛り付ける」の項でメカニズムが説明されています。 

男流文学論 (ちくま文庫)

男流文学論 (ちくま文庫)

 

島尾敏雄という作家は不倫をしていたんですけど、ある時、それが奥さんにバレたんです。奥さんはノイローゼになってしまいました。島尾敏雄は病妻を慶応病院に連れて行く。しかし帰宅すると、島尾敏雄は誠実そうな顔をして「実は愛人に本を送っていた」と妻に告白するのです。その様子を見た奥さんは、ノイローゼを悪化させてしまうのです。

これは、島尾敏雄のほうの挙動が明らかに不審です。

もし島尾敏雄が本当に奥さんを愛しているなら、愛人と別れるはずです。当然、愛人に本を送る必要なんてありませんし、それを奥さんに告げる必要もないわけです。病んでいるのは実は旦那さんのほうだったんです。

このように、「愛している」と言いながら、「愛していないよ」というメタメッセージを送ると、受け手は二つの矛盾するメッセージを受け取って、認知的不協和に陥ってしまうのです。

この時は、何が起きたかというと、①妻がヒステリー反応を起こし、精神病院送りになった、②心中騒ぎが発生、③子どもに精神的後遺症が残る(長男は言語障害、長女は精神的後遺症)。深刻な結果になっています。 

森岡さんは、一九九五年の『対話 生命・科学・未来』(ジャストシステム)で早くも心中に言及しており、論文でも「恋愛に絶望する」と書いているので、おそらく痴情沙汰は過去に何度かやっているはずです。

認知的不協和は言語レベルのDVなので、腕っぷしで実際に相手を殴る必要がないんです。本でOK。担当編集者は「あの本は売れなかった」と言っていましたが、当たり前です。読者を殴っているようなものなんですから。 

編集者はマジで品質管理について考えてほしい

私たち愛書家としては、一度こういうことがあると、今後筑摩書房の本を安心して読めません。PHP出版やKKベストセラーズあたりの、どうでもいいゴミクズ本の版元ではない。筑摩書房なら当然目利きをしてくれていると信頼して、こちらも読んでいる。

選択肢としては、自社からは出版させないとか、原稿を書きなおさせるとか、どうしても原文のまま出版するのであれば、解説でバランスをとるとか。ジュニアモデル写真集の分析のあたりは、著者の真骨頂なので「いいな」と私は思いましたが。

私は今回筑摩さんに送ったお手紙の中で「大学教授なんて、誰からも叱られません。編集者が叱ってください」と書いたんです。そういえば、編集者というのも、なかなか叱られない存在です。その上というと、もう警察の風紀係ぐらいしかいない。 

文芸評論家という人たちもいますけども、彼らはむしろ悪書が好きみたいです。『チャタレイ夫人』とか『四畳半畳の下張り』とか読みたがる。さらに悪書を読む権利も留保したがる。永山薫さんが青少年健全育成条例に反対していますけど。

でも私たちシャバの人間としては、こういう本は子どもの目にも触れるので、まず編集者のところで止めてほしいです。評論家は「批評で闘え」とか言いますけど、実際問題、あいつらのマンパワーで世の中のすべての悪書を殺し切れていない。私みたいなシャバの人間は、いま労働環境が厳しいので忙しくて、生きるので精いっぱいなんです。「あらかじめ悪書を作らせない」という方向で、版元側で製造物責任を徹底してもらわないと、世の中のゴミクズ本が増える一方なんです。本屋はゴミクズ本だらけ、ネットもゴミクズ情報ばかりでは、正しい知識の普及ができません。

私に言わせれば、藤沢数希の『ぼく愛』や本書のような悪書は、天然痘ウィルスみたいに、国会図書館の奥底に1部だけ保存して、研究者以外アクセスできないように閉じ込めてほしいんです。 

我慢していたんだけど、誰も怒らないから、私が消費者代表として、この際出版社にストレートに怒らないとダメだと思いました。なんだあの担当編集者の体たらくは。消費者にジャーナリズムが求められる時代って、絶対おかしいよ。書き手にジャーナリズムがない、編集者にもジャーナリズムがない、こうなると最終的に消費者がジャーナリストになるしかない。